この記事を書いた人:お坊さん(ご相談担当) >>>プロフィール LINE | Instagram | X お釈迦さまはいつ、どこで生まれたのか お釈迦さまは今から約2500年前、現在のネパール南部にあたる ルンビニーの園 でお生まれになりました。お父さまは釈迦族の王・浄飯王(じょうぼんのう)、お母さま.. お釈迦様の誕生日である4月8日は仏教寺院で行われる花祭り(灌仏会)という祭で知られます。キリストほど知られていない仏陀の誕生日のお祝いについて今回はご紹介します。お釈迦様の誕生日に見られる甘茶の由来や、日本以外の世界でのお祝いについてもご紹介します。
釈迦(しゃか、旧字体: 釋迦、サンスクリット: शाक्यमुनि、Śākyamuni)は、北インドの人物で、仏教の開祖。ただし、存命していた時代については後述の通り紀元前7世紀、紀元前6世紀、紀元前5世紀など複数の説がある。
姓名はサンスクリット語の発音に基づいた表記ではガウタマ・シッダールタ(梵: गौतम सिद्धार्थ Gautama Siddhārtha)、パーリ語の発音に基づいてゴータマ・シッダッタ(巴: Gotama Siddhattha)とも表記される。漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)である。
釈迦は苦の輪廻からの解脱を目指した。仏教の教義は多様化しているが歴史学的・宗教学的には「死後に天界を含めて、一切皆苦のこの世界で二度と生まれ変わらないこと」を釈迦は目指していたと説明される。より具体的には、人生の本質は「生老病死」などの「苦」(思い通りにならないこと)であり、全ての存在は「無常」であり「無我」である(移りゆくものであり、固有で不変の本質は存在しない)が、この真理を知らずに「我」に固執することから「苦」が生ずると釈迦は説き、こうした煩悩を滅して輪廻からの解脱を達成し涅槃に至るための実践方法(四諦・八正道・解脱への道)を釈迦は説いたと説明される(大乗非仏説も参照)。
仏舎利と言われる遺骨は真身舎利、真正仏舎利として今も祀られ、信仰を集めている。
名前と呼称
「釈迦」
シャーキヤ(梵: शाक्य Śākya)は、釈迦の出身部族であるシャーキヤ族またはその領国である、シャーキヤ国を指す名称である。「釈迦」はシャーキヤを音写したものであり、旧字体では釋迦である。
シャーキヤムニ(梵: शाक्यमुनि Śākyamuni)はサンスクリットで「シャーキヤ族の聖者」という意味の尊称であり、これを音写した釈迦牟尼/釈迦牟尼仏(しゃかむに/〃ぶつ)を省略して「釈迦」と呼ばれるようになった。天台宗や、臨済宗をはじめとする禅宗などで多く唱えられる念仏である「南無釈迦牟尼仏」も南無は「あなたにおまかせする」という意であるため「釈迦牟尼仏にすべてお任せします」という意味である。
姓名
パーリ仏典では、釈迦の父方の従兄弟・アーナンダもゴータマと呼ばれており、釈迦の母のマーヤーと母方の叔母で養母のマハー・プラジャーパティーはゴータマの女性形であるゴータミー(巴: Gotamī)と呼ばれている。
ガウタマ(ゴートラ)はアーンギラサ族(巴: aṅgīrasa)のリシのガウタマの後裔を意味する姓であり、この姓を持つ一族はバラモンである。クシャトリアのシャーキャ族である釈迦の姓がガウタマであることは不自然であり、先祖が養子だったとする説などがある。
名のシッダールタは、古い仏典に言及が無いこと、意味が「目的を達成した人」と出来過ぎていることから、後世に付けられた名前とする説がある。
尊称・敬称・異名
ブッダ(梵: बुद्ध buddha)は、「目覚める」を意味するブドゥ(梵: बुध् budh)に由来し、「目覚めた者」という意味である。ブッダを漢字で意訳したのが「覚者」や「覚王」である(愛知県名古屋市千種区にある覚王山日泰寺の名称の由来ともなった)。ブッダの本来の意味合いとしては、真理体得者(悟りを得た者)や聖仙の称号の一つであったが、現代では釈迦の固有名詞のように扱われている。上述のように原始仏教経典では「シッダールタ」という名への言及は見られず、「ゴータマ・ブッダ」という表記が多い。漢訳の音写は仏陀、旧字体では佛陀であるが、仏陀の略称が仏であり、「仏教」や「仏像」などの用語はこの尊称に由来する。「仏陀」の発音については「ぶっ-だ」の他に「ぶつ-だ」とも読まれる。
釈迦の異名は多くあるが、その中でも十号がよく知られている。
タターガタ(梵: तथागत tathāgata)は、「そのように来た者」または「そのように行った者」を意味する釈迦の尊称である。音写は多陀阿伽度、意訳は如来であり、釈迦如来ともいう。またバガヴァント(梵: भगवन्त् Bhagavant)は、世の中で最も尊い者を意味する釈迦の尊称であり、音写は婆伽婆もしくは薄伽梵、漢訳は世尊である。
仏教では、釈迦牟尼仏、釈迦牟尼如来、釈迦牟尼世尊としたり、またそれらを省略して、釈尊(しゃくそん)、牟尼、釈迦尊、仏様、お釈迦様と呼ぶ。
生涯
釈迦を同時代に客観的に記録した一次史料は皆無に等しく、人種さえ不明である。欧米の仏教学者の中には、釈迦はインド・アーリア人種である、アーリア人種は白人のルーツなのだから、釈迦はコーカソイド的(白人的)な顔つき・身体的特徴を備えていたと主張する者もいる。釈迦が備えていた三十二相の一つ「真青眼相」では、「ブッダの眼は青い蓮華のように紺青である」と説明される。
上座部仏教と大乗仏教のどちらにおいても釈迦は六神通を使う超人的な存在として捉えられている。そのため経典が伝える釈迦の生涯(仏伝)は超人的な逸話が多いうえに、大乗非仏説に基づけば、大乗経典は後世に成立した信仰や教義に合わせて仏伝を改変する傾向もあるとされるため、実在の人物としての釈迦の生涯を知る上では注意して取り扱わなければならない。釈迦の生涯を体系的に網羅した書籍としては『ブッダチャリタ』が著名である。
釈迦を客観的に記録した一次史料が皆無な現代においては「史的ブッダ」を歴史学的に完全に復元することは不可能であるとされる。大谷大学教授の新田智通は次のように説明している。
本項の以下の記述は、伝統仏教の信仰的説話の内容も含むものである。
誕生から青年期
釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国の属国であるシャーキヤのラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである。マーヤーは、出産のための里帰りの途上、カピラヴァストゥ郊外のルンビニで子を産んだ。
仏教の教義では、釈迦は六道輪廻の中で善行を積み神々の住む天界(兜率天)に転生していたが、成道のため現世に降下することにし、釈迦は白象に化して母マーヤーの胎内に宿り、産みの苦しみを与えないためマーヤーの産道を通らず右の脇腹より生まれ出たとされる。そして生誕した釈迦は七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と宣言したとされる。釈迦は生誕時には過去世の記憶を保っており上記の宣言をしたが、その後普通の人間と同じく過去世の記憶を失った。時は流れて釈迦が悟りを開いてブッダになると六神通を得て、六神通の一つである宿命通によって釈迦は過去世の記憶を全て取り戻した、と説明される。
白象懐胎についてキリスト教の教義と混同した西欧人学者によって「マーヤーは処女懐胎によって釈迦を受胎した」と説明されることもあるが、梶山雄一は、『方広大荘厳経』には白象懐胎によってシュッドーダナとの性行為によらずマーヤーが釈迦を受胎したとの記述は見られるものの、釈迦を受胎したときマーヤーが処女であったとする記述は仏典には見られないとしている。
上座部仏教の『パーリ仏典』希有未曾有法経では釈迦の生誕時の言葉について「私はこの世界で最上の者である。これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」、すなわち私はこれまで輪廻転生を繰り返してきたが、前世で功徳を累積し誰も到達したことのない悟りに最も近い者である、兜率天から降下し今世の生で悟りを得て解脱し涅槃に入ってみせるという釈迦の決意表明だが、上座部仏教より後に成立した大乗仏教では久遠常住などの教義にそぐわないためか後半の「これが最後の生まれであり、もはや二度と生まれることはない」が省かれて前半のみの「天上天下唯我独尊」となり意味合いが分かりにくくなっていると説明される(詳しくは大乗非仏説参照)。
釈迦生誕時の逸話として以下もある。父王シュッドーダナは我が子である釈迦にまみえて、その器量に畏れの念を抱いた。そのためルンビニの観相学に長けたバラモンに我が子である釈迦の観相を依頼したところ、そのバラモンは「お喜びください。太子(釈迦)は殊勝の子です。世俗にあれば転輪聖王となって天下を統治し、衆生に現世利益をもたらすでしょう。世俗を放棄し出家者になるならば、必ずこの世界の真理を体得して覚者と成られることでしょう。」と答えた。その後、父王と釈迦の元にアシタ仙が訪れた。釈迦の三十二相を見て、釈迦が将来必ず等正覚(悟り)を成ぜることを確信した。アシタは父王と釈迦の御前で涙を流したが王はその訳をアシタに尋ねた。アシタは「太子(釈迦)がブッダとなり説法をする頃には私の寿命は尽きているでしょう。そのことを私は悲しんでいるのです。」と答えた。
母マーヤーは釈迦を出産した7日後に死去した。マーヤーが出産した子はシッダールタと名付けられた。シャーキャの都カピラヴァストゥにて、釈迦はマーヤーの妹マハープラージャーパティによって育てられた。
釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけるが、「教えることが無くなりました」と教師が辞任を申し出たという話があるほど聡明であったと言われている。16歳または19歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、跡継ぎ息子としてラーフラをもうけた。
出家
釈迦在世時のインドでは沙門・六師外道(外道は仏教側から見て「外道=仏教ではない」という意味である)といった修行者・思想家が出現し、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派など様々な勢力が伝統的価値観とは異なる新思想運動を展開していた。彼らにとって輪廻からの解脱は一つのテーマとなっていた。古代インドではバラモン教の教義(リグ・ヴェーダなど)と輪廻転生の概念が成立したが、輪廻転生の概念では、アブラハムの宗教のように人間のみを特別な生物だとして特別視するようなことはなく、死後にこの世界で生まれ変わったとしても人間以外の動物や家畜に生まれ変わることもあるとされた。そのため輪廻は苦をもたらすものだとして恐れられ、来世への恐怖感が生まれた
。順世派は唯物論的観点から輪廻転生を否定し、人は死ねばそれで終わりである、来世はない、わざわざ解脱の修行をしなくても生まれ変わらないのだから解脱修行の必要はないと説いた。
釈迦が出家を志すに至る過程を説明する説話に四門出遊の故事がある。釈迦が初めてカピラヴァストゥ城から外出したとき、最初の外出では老人に会い、2回目の外出では病人に会い、3回目の外出では死者に会った。この出来事を契機として、人身は永遠ではなく病や老いを経て死に至る、この世は苦に満ちていると感じた(四苦)。4回目の外出では一人の沙門に出会い、生・老・病・死を超越した生き方を知り、出家の意志を持つようになった。なお仏教の信仰的説話では、父王シュッドーダナは太子(釈迦)の目を汚すとして沿道から老人・病人・死人(人の遺体)を徹底的に排除するよう厳命したが、過去世の記憶を失っていた釈迦に対して世の無常さを目の当たりにさせて成道を促すため、シュッダーディヴァーサ神(浄居天)が老人・病人・死人に変身して釈迦一行の前に現れたと説明される。
釈迦は王族としての安逸な生活では無常や苦を克服できないと痛感し、この世界の真理を追求しようと志して29歳で出家した。ラーフラが産まれて間もない頃、深夜に釈迦は王城を抜け出した。現代日本では「釈迦が妻子を捨てて出家したこと」に対する批判も根強いが(出家をするならば家庭を持つ前に出家すべきだったという意見など)、古代インドでは四住期という考え方があり、出家するにしても家の断絶を避けるため子を設けてから出家すべきという風潮も強く、当時の価値観に則ったものだとして現代の価値観に基づいて善悪を論じることは不適当とする見方もある(詳しくはアーシュラマ参照)。
出家した釈迦は当時の大国であったマガダ国のラージャグリハを訪れ、ビンビサーラ王に出家を思いとどまるよう勧められたがこれを断った。また、バッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天界(デーヴァローカ)に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った(天人五衰も参照)。釈迦は、次に教えを受けたアーラーラ・カーラーマの境地(無所有処定)およびウッダカラーマ・プッタの境地(非想非非想処定)と同じ境地に達したが、これらを究極の境地として満足することはできず、またこれらでは衆生を煩悩から解放したり真の悟りを得ることはできないと覚った。この三人の師は釈迦の優れた資質を知って後継者としたいと願ったが、釈迦はこれらのすべては悟りを得る道ではないとして辞し、彼らのもとを去った。
そしてウルヴェーラーの林へ入ると、父のシュッドーダナは、釈迦の警護も兼ねて五人の沙門(のちの五比丘)を同行させた。その後6年の間に様々な苦行を行った。断食修行でわずかな水と豆類などで何日も過ごした。断食修行により釈迦の心身は消耗し、骨と皮のみのやせ細った肉体となっていた。
しかしスジャーターの施しを得たことで(乳粥供養)、過度の快楽が不適切であるのと同様に、極端な苦行も不適切であると悟って釈迦は苦行をやめた(苦行放棄)。その際、五人の沙門は釈迦を堕落者と誹り、彼をおいてワーラーナシーのサールナートへ去った。
悟り
釈迦は、悟りを開く直前に悪神マーラによる様々な誘惑を受けたが、それをすべて退けた(降魔成道)。
釈迦は、ガヤー(現在のガヤー県内)の近くを流れるナイランジャナー川で沐浴したあと、村娘のスジャーターから乳糜の布施を受け、体力を回復してピッパラ樹の下に坐して瞑想に入った。釈迦は正覚(悟り)に達してこの世界の真理を体得しブッダになったとされる(成道)。悟り得た釈迦は六神通を体得した。
この後、釈迦は宿命通で自身の過去世を回想し、7日目まで釈迦はそこに座わったまま動かずに悟りの余韻を味わった。そののち縁起と十二因縁を悟ったといわれる。8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わったという。22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかを考えた。その結果、この真理は世間の常識に逆行するものであり、法(ダルマ)を説いても世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至り、そのまま涅槃に入ることも考えた。
ところが最高神ブラフマー(梵天)が現れ、衆生に法(ダルマ)を説くよう繰り返し強く請われたとされる(梵天勧請)。3度の勧請の末、釈迦は世の中には煩悩の汚れも少ない者もいるだろうから、そういった者たちについては教えを説けば理解できるだろうとして開教を決意した。
釈迦はまず、修行時代のかつての師匠のアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタに教えを説こうとしたが、二人はすでに死去していたことを知ると、ともに苦行をしていた五人の沙門(五比丘)に説くことにした。
ワーラーナシーのサールナートに着くと、釈迦は五人の沙門に対して中道、四諦と八正道を説いた(初転法輪)。五人は当初、釈迦は苦行を止めたとして蔑んでいたが、説法を聞くうちに解脱した。最初の阿羅漢はコンダンニャであった。法を説き終えた結果、世界には6人の阿羅漢が存在した。最高の悟りを得て真理を体得した者を阿羅漢と呼ぶが、原始仏教では釈迦も阿羅漢の1人とされた(現在の仏教教学では、阿羅漢はブッダに次ぐ存在とされブッダと阿羅漢は区別される)。
釈迦の根本教説
釈迦は無我を説き、常一主宰な我を否定した上で(肉体があればこそ意識が生じるのであり、死後肉体が滅んでも霊魂は不滅であるという考えを否定した上で)、業(カルマ)に基づき輪廻転生すると説いた。その理論を前提として釈迦が目指したものは「輪廻からの解脱を達成し、死後に天界を含めて一切皆苦のこの世界で二度と生まれ変わらないこと」だったというのが宗教学上の通説である。大乗非仏説では浄土往生は後世に後付けされた教義と捉える。佐々木閑は「この世を一切皆苦ととらえ、輪廻を断ち切って涅槃に入ることで、二度とこの世に生まれ変わらないことこそが究極の安楽だと考えた」と説明している。釈迦の教えは輪廻からの解脱を望む人々のための教えで、一切衆生の救済を対象とするものではなかった。釈迦は、業(カルマ)によって輪廻転生するのは自然法則の一部であり、欲や執着を絶って輪廻の原動力である業を生み出さなければ転生しないという、極めて科学的な解釈をしていた。釈迦は無我説を否定する教説である常見(人生は一度限りだが霊魂は不滅であるとする見解)・断見(出家し、欲や執着を絶って解脱し涅槃に入らなくても、人は死ねば二度と生まれ変わらないとする見解)は、悪見であると批判した。
『沙門果経』によれば、釈迦は人間の意識について「肉体は元素から成り食物の集積に過ぎず、恒常的ではなく衰退・消耗・分解・崩壊するものである。意識もその肉体に依存している」と説き霊魂を否定したとする(無我)。
『雑阿含経』の「盲亀浮木のたとえ」では、輪廻転生の中で人間に生まれるということは得難い機会である、来世で他の生物に転生してしまっては修行ができず輪廻から解脱できない、よって人間である今世こそが輪廻から解脱し入涅槃できる最上の機会だと心得よ、と釈迦は説いたとする。『中阿含経』(上座部では小マールキヤ経)の「毒矢のたとえ」などの記録をもとに「釈迦は来世について沈黙した(無記)」と説明されることもあるが、清水俊史は来世の質問に釈迦が答えなかったのは相手を混乱させないため、または来世への執着につながり解脱と入涅槃の妨げになると考えたためで「来世について沈黙した」というのは誤った解釈であると説明している。清水は『火ヴァッチャ経』などの記述を元に、一切の衆生は死後転生するが、解脱したのち死を迎え涅槃に入った者(修行完成者、如来)は二度と生まれ変わらないので来世はない、というのが釈迦の真意であると論じている。大谷大学教授の新田智通は、原始仏教は明らかに輪廻転生を前提とし、輪廻からの解脱をテーマとしているため、並川孝儀の学説のように「釈迦は輪廻転生を否定した」という見解を採ると教義が破綻し成立しないと説明している。サルヴパッリー・ラーダークリシュナンも、釈迦の本来の教えは古代インドの宗教観から著しく外れたものではなく、ウパニシャッド哲学から派生したものだと説明していた。
釈迦は修行者の修行段階に応じて、何回輪廻転生すれば入涅槃できるか(輪廻から解脱し生まれ変わらなくなるか)を説いたとされる。例えば阿羅漢の者は今世で死を迎えれば涅槃に入り、不還の者は今世で死を迎えると天界に転生(生天)し、天界でも修行に専念すれば、天人として死を迎えたとき涅槃に入ると説いたとする。しかし解脱に至る転生回数の教説については原始経典で見解の相違が見られることから、それが体系化されたのはアビダルマ教学においてである、とする見方もある(詳しくは四向四果参照)。
開教に際しての、バラモンの神ブラフマーが釈迦に教えを請うた梵天勧請の故事については「天界の神々よりも真理体得者のブッダの方が上位に位置する」、「天界の神々も衆生であって不死ではなく(天人五衰参照)、死後どのようになるか分からないので、輪廻からの解脱を望んでいる」のだと仏教側からは説明された(古代インドでは死後何処に、何の生物に転生するか分からないという来世への恐怖から解脱を望む、という感情があった)。釈迦はこの世界や輪廻転生の摂理は因果によって生じたのであり天界の神々の存在は認めるが(他宗教で例えるならばヤハウェのような)世界の創造者(絶対者)はいないと釈迦は説いた。釈迦は創造神の存在を想定したとき「ではその創造神は誰によって創造されたのか?」という問いが生じ、その問いに答えるためさらにその神を創造した上位の神を想定するならば「ではその上位の神は誰によって創造されたのか?」「その上位の神を創造した、上位の上位の神は誰によって創造されたのか?」という問いが無限に繰り返されるだけで、意味をなさないと説いた。
創造神の存在を否定する教義は大乗仏教にも引き継がれている。例えば新井白石はシドッチの取り調べの中で「創造論が正しいとするならば創造神デウス(ヤハウェ)自体を何者かが造って、天地がまだ存在しない時点で生まれたことになる。そうではなくてデウスが自ら勝手に生まれたと主張するならば、天地が勝手に生まれたとしてもおかしくはない」「キリスト教は仏教に比べて教義が劣っている」と述べ、創造論を退けている。
教化と伝道
釈迦は自らブッダ(目覚めた者)を名乗り、主に北インドを中心として教化活動を行った。釈迦の説く法は自ら悟り得たもので「私に師はいない」と釈迦は称した(無師独悟、縁覚)。現在ではブッダは釈迦の固有名詞のように捉えられているが、本来の意味合いとしては真理体得者(悟りを得た者)や聖仙の称号の一つでありジャイナ教のマハーヴィーラも「ブッダ」と呼ばれていた。
宗勢の拡大
釈迦はワーラーナシーの長者ヤシャスやカピラヴァストゥのプルナらを教化した。その後、ウルヴェーラ・カッサパ、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパの3人(三迦葉)は釈迦の六神通を目の当たりにして改宗した。当時、この3人はそれぞれがアグニを信仰する数百名からなる教団を率いていたため、信徒ごと吸収した仏教教団は1000人を超える大きな勢力になった。
釈迦はマガダ国の都ラージャグリハに行く途中、ガヤー山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって、あなた自身も、あなたたちの世界も燃えさかっている」と弟子らに説き、煩悩の炎が吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。なお『スッタニパータ』ではウバシーヴァの「輪廻からの解脱を達成し涅槃に入った者はどうなるのか?」という問いに対して、釈迦は「炎が消えたとき炎はどこへ行ったのかと問うようなもので、それを知覚し捉えることはできない」と答えている。
釈迦がラージャグリハに行くと、マガダ国の王ビンビサーラも仏教に帰依し、ビンビサーラは竹林精舎を教団に寄進した。このころサーリプッタ、マウドゥガリヤーヤナ、倶絺羅、マハー・カッサパらが改宗した。
以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハを中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者がだんだんと釈迦に帰依した。このようにして教団の構成員は徐々に増加し、ここに教団の秩序を保つため、様々な戒律(具足戒・五戒)が設けられるようになった。あらゆる欲や執着を絶ち輪廻からの解脱を達成するため、修行者は必要最低限以上の物を所有することや、一切の生産活動に従事することが戒律で禁止された。修行者は生産活動に従事できないため托鉢(乞食)で得られる食料によって命を繋いだ
。
在家信者とサンガ(僧伽)の関係については、在家信者らは解脱という高尚な目標のために邁進するサンガ(僧伽)に布施をして善業の果報による良い輪廻転生を期待し、サンガは在家信者からの布施を受けて輪廻からの解脱に専念するというギブアンドテイクの関係にあった。行いの立派な修行僧に布施をするほど在家信者の得られる功徳(果報)は大きいと釈迦は説き(仏教用語で福田と呼ばれる)、修行僧が悟りと解脱を目指して修行に励むことは、僧本人とその者に布施をする在家信者の双方の利益になると説いた。仏教に限らずインドでは「解脱を目指して修行をする者は人々の悪業(カルマ)をも打ち破る」とする宗教観・聖者信仰があり、現代においてもサドゥーと呼ばれる修行者がインド全土に数百万人いるとされる。
これより後、最後の1年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、成道した釈迦は故郷に一度帰還したとされ、父王シュッドーダナと面会した(父子相見)。仏伝によれば、釈迦は六神通を使って空を飛ぶ、自分の分身を作り出すなどの奇跡を起こし、一族は皆、釈迦に恐れおののいたという。故郷カピラヴァストゥへの釈迦の帰還によって、釈迦族の王子や子弟たちである、ラーフラ、アーナンダ、アニルッダ、デーヴァダッタ 、またシュードラの出身であるウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえばクル国のカンマーサダンマ (kammāsadamma) や、ヴァンサ国のコーサンビーなどである。成道後14年目の安居はコーサラ国のシュラーヴァスティーの祇園精舎で開かれた。
明らかに神話的な説話を除いた学術的な観点からは、史実の釈迦が教化・伝道した地域はインド内陸部のガンジス川中流域の地域だったとされる。釈迦の教化はこれらの地域を中心に、アンガ (aṅga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathurā)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (pañcālā)、ヴァンサ (vaṃsa) などの諸国に及んだ。
釈迦の奇跡に関する説話
釈迦の生涯の奇跡のうち、釈迦が40代の時のある同じ年に連続して起こした奇跡「舎衛城の神変」「三道宝階降下」が特に著名である。この奇跡はサーンチーのレリーフやガンダーラ仏、マトゥラー仏などでもよく題材にされている。
釈迦が40代の時のある年に、舎衛城で外道(仏教以外の沙門)から神通力による勝負を挑まれたため、六神通を使って大量の自分の分身を作り出す(千仏化現)、肩口から火炎を上げて足元から水流を放つ(双神変)などの奇跡を釈迦は披露して見せ、外道らを退散させた(舎衛城の神変)。その後釈迦は亡き母の元を訪れることを思い付き、神足通を使って三十三天を訪れて、三十三天に転生していた母マーヤーと天界の神々に説法を行った。帰りは帝釈天が用意した豪華な階梯を使って地上に帰還した(三道宝階降下)、という内容である。
『ブッダチャリタ』では三道宝階降下について以下のように記述される。
『パーリ仏典』では地上に帰還した際の経緯は次のように説明される。地上では開祖の釈迦が不在のため教団に混乱をきたすようになり、モッガッラーナが神足通を使って三十三天の釈迦の元を訪れ、地上に帰還するよう懇願した。釈迦はモッガッラーナの懇願を受け入れて地上(人間界)に帰還することにし、釈迦が天界から人間界のサーリプッタの元に帰る予定であると帝釈天(インドラ)に告げると、帝釈天は見送りのもてなしとして天界と地上(人間界)を結ぶ豪華な階梯を用意させた。階梯は三種あり黄金製・銀製・瑠璃製のものがあった。釈迦は神足通を使わず階梯を使って帰還し、帝釈天と梵天(ブラフマー)、その眷属らが付き従った。釈迦は黄金の階梯、梵天は銀の階梯、帝釈天は瑠璃の階梯を使ってサンカーシュヤに降下したという。釈迦が天界の神々を付き従えてサンカーシュヤに降下したとする日はラバブ・ドゥーチェン(降臨祭)としてスリランカ、チベット、タイなどで祝われている。
教団内紛の発生
仏教の五逆罪のうち「破和合僧」では、分派を形成することや教団内紛を引き起こすことは重大な戒律違反であるとされる。しかし実際には釈迦在世中から教団内紛が発生していたと考えられている。
デーヴァダッタの企て
教団内紛で広く知られるものは デーヴァダッタ率いる分派と教団主流派との対立である。デーヴァダッタは釈迦の従兄弟とされる。仏教主流派の伝統説話では、デーヴァダッタは釈迦の定めた戒律(具足戒)は手ぬるいと批判し、より厳格な戒律の制定を提案したものの釈迦が受け入れなかったため対立が生じたという。デーヴァダッタが釈迦に提唱した「五事の戒律」は以下の通りである。
- 僧は人里離れた森林に住すべきであり、村々に入れば罪となす。
- 僧が乞食(托鉢)をする場合に、家人から招待されて家に入れば罪となす。
- 僧は糞掃衣(ふんぞうえ)を着るべきであり、俗人の着物を着れば罪となす。
- 僧は樹下に座して瞑想すべきであり、屋内に入れば罪となす。
- 僧は魚・肉・乳酪を食さず、もし食したら罪となす。
仏教主流派(非デーヴァダッタ派)に伝わる伝統説話では、デーヴァダッタは分派を形成するのみならず釈迦の殺害も企てたとされる。デーヴァダッタはまず釈迦を落石で殺害しようと試みたが失敗した。釈迦は軽傷を負い血を流したものの命に別状はなかった。続いてデーヴァダッタは酔象(酒に酔わせた象、発情期の象の2通りの解釈がある)を放って釈迦殺害を試みたが、釈迦は全く臆することなく暴れる象に法を説き調伏させた(大人しくさせた)という。この説話は酔象調伏の故事として広く知られる。デーヴァダッタはこれらの企ての後、五逆罪(出仏身血、破和合僧)の悪業の報いを受けて、生きながらにして地の底(地獄)に引きずり込まれたという。
上述の通りデーヴァダッタは釈迦の定めた戒律よりも、より厳格な戒律を定めようとして主流派教団と対立したが、デーヴァダッタの定めた戒律の中に「肉食の禁止」が存在することから、逆に考えて「釈迦は肉食を必ずしも戒律で禁止していなかった」と説明されることが多い
(三種の浄肉も参照)。仏教に限らずインド発祥の宗教において菜食主義(肉食忌避)が教義に取り入れられることが多い理由について、単に「不殺生(生命の尊重)」という理由だけではなく輪廻思想がその背景にあり、「来世で動物や家畜に転生してしまったら人間に殺され、食されるかもしれないという恐怖感」や「亡き父母が家畜に転生していたら、父母を殺めて食すという親不孝を犯すかもしれないという恐怖感」など、来世で動物や家畜に転生しうるという恐怖感に起因して肉食を忌避するようになったとする説がある。(原始仏教や部派仏教の教義では、ブッダや阿羅漢はもはや転生しないので来世はなく(漏尽通参照)、仏法に帰依する在家信者は死後下位に転生することはない、とされる。)
コーカーリヤの死
『スッタニパータ』では、僧コーカーリヤが阿羅漢であるサーリプッタとモッガッラーナを誹謗中傷した結果、悪業の報いを受けて悲惨な最期を遂げ、さらに地獄に転生したという説話があるが、この説話の成立にも教団内紛が関わっているとする説がある。
『スッタニパータ』の説話は以下の通りである。僧コーカーリヤが釈迦の元を訪れ、「尊き師(釈迦)よ。サーリプッタとモッガッラーナには邪念があります。悪い欲求にとらわれています。」と進言した。釈迦は「コーカーリヤよ、まあそういうな。サーリプッタとモッガッラーナを信じなさい。彼らは善良な人たちだ」と答えた。しかしコーカーリヤは同じ進言を繰り返し、釈迦も同じ回答を繰り返した。コーカーリヤは進言を諦め釈迦の元を立ち去った。その後コーカーリヤの体には小さな腫れ物ができたが、日に日にそれが大きくなり最後には腫れ物が破裂して出血死した。最高神で娑婆世界の主であるブラフマー(梵天)は釈迦の元を訪れ「尊いお方様(釈迦を指す)、修行僧コーカーリヤは死去しました。コーカーリヤはサーリプッタとモッガッラーナに対して敵意をいだいていたので、死んでから紅蓮地獄に転生しました」と報告し、敬礼して(右繞三匝して)釈迦の元を立ち去った。釈迦はその後、弟子らの前で「人の口の中には斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自らを斬り割くのである」と説き、地獄に転生したコーカーリヤについて様々なたとえを用いて「彼が地獄で苦しむ期間は長い」と説明した。『スッタニパータ』のこの説話は「諸々の智者の計算によれば(コーカーリヤが地獄で苦しむ期間は)五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、その間は地獄に留まらなければならない。それ故に、人は清く、温良で、立派な美徳を目指して、常に言葉を慎むべきである」という文で結ばれている。
中村元はこの説話について、サーリプッタとモッガッラーナは元々、懐疑論者サンジャヤ・ベーラッティプッタの門下であったため他の釈迦の弟子らと不仲であったという見解を提示している。『スッタニパータ』以外の原始経典によれば、突然の雨に見舞われたサーリプッタとモッガッラーナはある家で雨宿りをしたが その家には先客として女人がいたため、サーリプッタとモッガッラーナを嫌うコーカーリヤは彼らを陥れるため「サーリプッタとモッガッラーナは女人と間違いを犯した」と吹聴したという。中村元は、史実の釈迦はこうした内紛を抑え、弟子らの仲を取り持つため努力していたようだが、そうした調停が困難になりこうした説話が成立したと説明している。
入滅までの1年間
釈迦の伝記の中で今日まで最も克明に記録として残されているのは、入滅前の1年間の事歴である。『パーリ仏典』収録の『大パリニッバーナ経』や、漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳などの記録である。
シャーキャ国の滅亡
入滅の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道はラージャグリハの竹林精舎から始められたといわれている。
この頃コーサラ国では内紛があり、国王プラセーナジットの子ヴィドゥーダバが挙兵し、父王から王位を簒奪した。そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁いでいたマガダ国のアジャータシャトルを頼って向かったが、城門に達する直前に絶命した。
新王ヴィドゥーダバは即位後、即座にシャーキャ国の攻略に向かった。この時、釈迦はシャーキャ国のカピラヴァストゥに残っていた。釈迦は、故国を急襲する軍を道筋の樹下に座って三度阻止した。しかしシャーキャ国の滅亡は業(カルマ)によるもので宿因の止め難きを覚り、四度目の出兵では釈迦は阻止を試みず、ついにカピラヴァストゥは攻略された。その後コーサラ国の王ヴィドゥーダバ自身も真理体得者(釈迦)の一族を皆殺しにした悪業の報いを受けて、河で戦勝の宴の最中に、洪水または落雷によって命を落としたという。
釈迦はカピラヴァストゥから南下してラージャグリハに着き、しばらく留まった。
自灯明・法灯明
釈迦は多くの弟子を従え、ラージャグリハから最後の旅に出た。アンバラッティカ(巴: ambalaṭṭhika)へ、ナーランダを通ってパータリ村(後のパータリプトラ)に着いた。ここで釈迦は在家信者に対して、仏法を拠り所として戒律(五戒)を遵守して生きれば善業を生み、その果報として死後天界に転生(生天)すると説いた。パータリプトラを後にして、増水していたガンジス河を渡り、コーティ村に着いた。『ブッダチャリタ』では、釈迦一行は六神通の一つ神足通を使ってガンジス川を瞬間移動で渡河したという逸話がある。
次に釈迦は、ナーディカ村を訪れた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、人々に、三悪趣が滅し預流の境地に至ったか否かを知る基準となるものとして法の鏡の説法をする。次にヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処や三学を説いた。やがてここを去ってベールヴァ(Beluva)村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。釈迦はここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。
この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後、「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。これについて釈迦は、
と説き、すべての教えはすでに弟子たちに語られたことを示した。釈迦はアーナンダに「自らを灯明とし、自らを拠り所として、他のもの(añña)を拠り所としてはならない」と訓戒し、また自らが世を去っても、これまでに説いた法(ダルマ)を拠り所にすべきであると説いた。「自らを灯明とすること・法(ダルマ)を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、
として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。
これが有名な「自灯明、法灯明」の教えである。
余命を自ら捨てる決意
『大パリニッバーナ経』と『ブッダチャリタ』では具体的に何の神通力によるものかは明記されていないが、釈迦は入涅槃にあたり、ヴァイシャーリーで死期を自ら定めたということになっている。それらの仏典によれば経緯は以下の通り。病から回復した釈迦の前に、かつて成道を妨害しようとした悪神マーラが再び現れた。マーラは釈迦の教化によって堕落した人間が減り、自らの領域が狭まることを恐れ「あなた様はこの世界で法(ダルマ)を説いて回り、もうなすべき事は全てなした筈です。生に執着せず涅槃に入られたらいかがですか」と釈迦に入涅槃を勧めた。これに対して釈迦は余命(一説には釈迦は現世で善行をなしていたので一劫年の余命があったとも、一方「一劫年」は経典の誤読とする説もある)を捨てる決意をし、釈迦はマーラに「慌てることはない、あと3か月もすれば私は涅槃に入るだろう」と答えた。釈迦が自ら余命を捨てたため大地で地震が起こり、アーナンダが何かの変事かと思い釈迦の元に駆け付けて理由を問うと、「私は自ら余命を捨てる決意をしたので地震が起きたのである」と答えたという。
釈迦の余命放棄の決断は、釈迦在世中の仏教徒に大きな衝撃を与えた重大事件であり、後世の仏教徒にも多大な影響を与えたとして、余命を放棄したヴァイシャーリーは古代インドにおいて仏教の八大聖地の一つに数えられた。しかしヴァイシャーリーは猿が釈迦にマンゴーの蜜を献上し、その猿は死後、善業によって人間に転生したという「獼猴奉蜜」説話の地でもあるため、ヴァイシャーリーは「獼猴奉蜜」の故事を理由として八大聖地の一つに数えられたと説明されることも多い。
鍛冶工チュンダの供養
やがて雨期も終わって、釈迦は托鉢に戻ると、アーナンダを促して、チャーパーラ廟へ向かった。永年しばしば訪れたウデーナ廟、ゴータマカ廟、サッタンバ廟、バフプッタ廟、サーランダダ廟などを訪ね、チャーパーラ霊場に着くと、ここで聖者の教えと六神通について説いた。
托鉢を終わって、釈迦は、これが「如来(釈迦)のヴァイシャーリーの見納めである」と言い、バンダ村 (bhandagāma) に移り四諦を説き、さらにハッティ村 (hatthigāma)、アンバ村 (ambagāma)、ジャンブ村 (jāmbugāma)、ボーガ市 (bhoganagara)を経てパーヴァー (pāvā) に着いた。ここで四大教法を説き、仏説が何であるかを明らかにし、戒定慧の三学を説いた。釈迦は、ここで鍛冶工のチュンダのために法を説き供養を受けたが、チュンダが供した料理を食した釈迦は激しい腹痛に見舞われた。
腹痛の原因は「スーカラ・マッタヴァ」という料理だったが『大パリニッバーナ経』ではそれが何の料理だったかについて具体的な説明はない。上座部仏教で最も権威ある仏典注釈者のブッダゴーサは「若すぎず老いすぎない上等な野豚の生肉である」と注釈を付けている。宇井伯寿はキノコ料理説を提示している。かつては、鍛冶工チュンダは貧しい貧民であり供された供物も粗悪なものだったので食中毒を発症したという説が存在したが、現代の研究では鍛冶工はカーストの下位に属するものの『大パリニッバーナ経』に「チュンダはマンゴー林を所有していた」という記述が見られることから、チュンダは貧民ではなく富裕層に属すると解されるのが一般的である。
釈迦は「スーカラ・マッタヴァを完全に消化できるのは、修行完成者(釈迦)の他にいない。人間を含む全ての生物や天の神々でも消化できる者を見出すことはできない」と説き、残ったスーカラ・マッタヴァを他の者は食べずに、地面に穴を掘って埋めるよう指示した。
現代人の感覚から見れば「釈迦は食中毒で死去した」と受け止められる。しかし上座部仏教徒は、釈迦の直接の死因は釈迦が悪神マーラとの対話の中で自ら余命を放棄したことによるもので、余命の放棄で生命力が減退していたために食中毒を発症したという、食中毒はあくまで二次的な死因と解釈している。
入滅
激しい腹痛に見舞われた釈迦だったが歩みを止めることなく、カクッター河で沐浴したのちマッラ国のクシナガラへ向かった。釈迦はクシナガラで自らの最期が近いと覚り、この地で入滅する決意を固めた。アーナンダは「尊いお方様(釈迦)は小さな町で入滅してはなりません。尊いお方様は王舎城のような大都市でお亡くなりになってください。そうした大都市には裕福な王族、裕福なバラモン、裕福な資産者がおり修行完成者(釈迦)を崇拝しています。彼らは修行完成者の遺骨を崇敬の対象にすることでしょう」と進言したが、釈迦は「そのような(クシナガラを蔑視する)発言をしてはならない」と戒めた。
釈迦は、チュンダが「修行完成者(釈迦)を死に追いやった悪業の報いが必ず自分に降りかかる」という恐怖にかられている可能性を考慮し、アーナンダに「修行完成者(釈迦)はスーカラ・マッタヴァを食して涅槃に入った(輪廻からの解脱を達成した)。よってチュンダには大いに功徳がある」とチュンダに伝えるよう指示した。
釈迦はクシナガラ近くのヒランニャバッティ河のほとりへ行って横たわり、そこで入滅して涅槃に入った。80歳であった。佐々木閑は釈迦の説く涅槃の意味合いについて「解脱し悟りを開いた者(修行完成者)だけが到達できる特別な死であり、二度とこの世に生まれ変わることのない完全なる消滅を意味する」と説明している。『ブッダチャリタ』では涅槃に入った釈迦について「地上においては老・死の恐怖はなく、天上においては天界から落ちる恐怖(天人五衰)はない。(中略)生があれば不快が生じる。再び輪廻に生まれないことによる非常な快以上の快はない。」と述べている。
釈迦の最期の言葉は以下であった。
滅後
釈迦の滅後、その遺骸は釈迦の弟子らとマッラ族の人々の手によって火葬された。当時、釈迦に帰依していた七大国の王たちは、釈迦の遺骨(仏舎利)を得ようとマッラ族に遺骨の分与を乞うたが、マッラ族の人々はこれを独り占めしようとし諸国の王らの要求を拒否した。そのため七大国の王たちは軍勢をクシナガラに差し向け、クシナガラは大軍に包囲されたが、ドーナ(dona、香姓。独楼那、徒盧那とも)というバラモンの調停を得て仏舎利は八分され、遅れて来たマウリヤ族の代表は灰を得て灰塔を建てたという。
その八大国とは、
- クシナガラのマッラ族
- マガダ国のアジャタシャトゥル王
- ベーシャーリーのリッチャビ族
- カピラヴァストゥのシャーキャ族
- アッラカッパのプリ族
- ラーマ村のコーリャ族
- ヴェータデーバのバラモン
- バーヴァーのマッラ族
である。
ガンダーラ仏の出現までは、ムハンマドの表象のように開祖である釈迦の図像化が徹底的に忌避され、仏舎利を祀るストゥーパが信仰の高いウェイトを占めていた。釈迦の図像化が忌避された理由については「私の死後は私の説いた法(ダルマ)を拠り所にすべきであって、私自身を信仰の対象にしてはならない」という釈迦の遺言に基づいていたなど諸説ある。ストゥーパの意味合いについてインド美術史家の宮治昭は「もともと釈尊(釈迦)の墳墓ではあったが単に聖者の墓というのではなく、輪廻の世界を脱して完全なる消滅、 ”般涅槃”を達成し、いわば永遠の静寂の世界に到達した仏陀それ自身の象徴と見なされた」と説明している。
残された弟子たちは釈迦の遺した教えと戒律に従って跡を歩もうとし、何度か結集を行い釈迦の教法と律とを口伝で伝世させた。それらが文字化されたものが『パーリ仏典』や『阿含経典』群であるとされる。
生涯についての歴史学的検証
釈迦の生涯に関しては、釈迦と同時代の一次史料が皆無に等しく、一時期はその史的存在さえも疑われたことがあった(釈迦は架空の人物という説もあった)。
近現代においては文献学的な考証から、大乗経典の成立時期の問題からして、『パーリ仏典』や『阿含経典』群のみに釈迦直説の教説が説かれているとし、他の教説は後世に付け加えられたものであるとされた(大乗非仏説)。『パーリ仏典』のスッタニパータは最古層に属する仏典ということで宗教学者・文献学者・言語学者の間で見解の一致を見ているが、『パーリ仏典』に関しても全てが釈迦の直説ではなく、『天宮事経』や『譬喩経』など後年に創作されたものも含まれると考えられている。
文献
釈迦の生涯を伝える経典
注:以下〔大正〕とは、大正新脩大蔵経のことで、続く数字は巻数とページ数である。
- 修行本起経 〔大正・3・461〕
- 瑞応本起経 〔大正・3・472〕 – これらは錠光仏の物語から三迦葉が釈尊に帰依するところまでの伝記を記している。
- 過去現在因果経 〔大正・3・620〕 – 普光如来の物語をはじめとして舎利弗、目連の帰仏までの伝記。
- 中本起経 〔大正・4・147〕 – 成道から晩年までの後半生について説く。
- 仏説衆許摩房帝経 〔大正・3・932〕
- 仏本行集経 〔大正・3・655〕 – これらは仏弟子の因縁などを述べ、仏伝としては成道後の母国の教化まで。
- 十二遊経 〔大正・4・146〕 – 成道後十二年間の伝記。
- 方広大荘厳経(普曜経) – これらは大乗の仏伝としての特徴をもっている。
- ブッダチャリタ 〔大正・4・1〕(梵:Buddha-carita) 馬鳴著
- マハーヴァストゥ
- 遊行経 『長阿含経』中
- 仏般泥洹経 白法祖訳
- 大般涅槃経 法賢訳 – 以上3件は、釈尊入滅前後の事情を述べたもの。
- 『自説経(ウダーナ)』 – パーリ語による仏典。
遺跡
ルンビニ
1868年、ドイツ人の考古学者アロイス・アントン・フューラーがネパールの南部にあるバダリアで遺跡を発見した。そこで出土した石柱には、ブラーフミー文字で、「アショーカ王が即位後20年を経て、自らここに来て祭りを行った。ここでブッダ釈迦牟尼が誕生されたからである」と刻まれており、同地が仏教巡礼の八大聖地のひとつ、釈迦の生誕地ルンビニだとわかった。
ピプラーワ
1898年にルンビニから西南西15 km のピプラーワ遺跡で、イギリス駐在官W・C・ペッペ(William Claxton Peppé)が「ゴータマ・シッダールタの遺骨及びその一族の遺骨」と書かれた壺を発掘した。ペッペが発見した壺に入っていた遺骨は、現在では真の仏舎利として最も信憑性があるとされている。この遺骨は当時のイギリス領インド政府からタイ王室に譲り渡され、さらにその仏舎利の一部はタイ王室から日本へ譲り渡されて覚王山日泰寺に納められている。
カピラヴァストゥ比定地論争
シャーキャ国の都であり釈迦の故郷であるカピラヴァストゥは、法顕が5世紀に、玄奘が7世紀に訪れてそれについて書いたように、釈迦の死後1000年ほどは仏教徒の巡礼の地であったという。だがその後、この地域で仏教は影響力を失い、ヒンドゥー教やイスラム教にとってかわられ、釈迦のことは語られなくなり、やがて14世紀ごろにはカピラヴァストゥの正確な場所が分からなくなった。
現代ではネパールとインド間で、カピラヴァストゥの比定地を巡って論争になっている。インド側はネパール国境に近いウッタル・プラデーシュ州バスティ県のピプラワ遺跡(上述のW・C・ペッペが釈迦の骨壺を発掘した遺跡)がカピラヴァストゥの比定地だと主張し、ネパール側はティロリコートがカピラヴァストゥの比定地だと主張している。
生没年
釈迦の没年は、仏教経典に「仏滅から○○年後にアショーカ王が即位した」と記述されるため、アショーカ王の即位年を基準に推定されている。しかし、釈迦の死後何年がアショーカ王の即位年であるかは典拠によって違いがあり、特に大乗仏教と上座部仏教の経典で100年以上の差がある。ただし北伝仏教の『歴代三宝紀』収録の「衆聖点記」に関しては上座部経典の伝える入滅年と同じ見解を採る。
日本の仏教学者の宇井伯寿や中村元は大乗仏教の経典に基づき、欧米の仏教学者の多くは上座部仏教の経典(パーリ経典)に基づいて没年を推定している。一方、『大般涅槃経』その他いずれの典拠においても釈迦が80歳で死去したとする記述は共通しているため、没年を決定できれば自動的に生年も導けることになる。
上座部仏教の本場スリランカに伝わる『マハーワンサ』や、上座部仏教で最も権威ある仏典注釈者ブッダゴーサの注釈によれば「仏滅から218年後にアショーカ王が即位した」と記録される。その記録に基づけば釈迦の入滅年は紀元前486年と導かれる。山崎元一は、古代インドのバラモン教側の歴史史料や、ジャイナ教側の歴史史料(マハーヴィーラ入滅から○○年後に○○王が即位した、○○が死去したなどの記録が多く残る)も踏まえれば、スリランカ上座部の伝える釈迦の没年(紀元前486年)が圧倒的に歴史学的根拠があると説明している。
主な推定生没年は、
- 紀元前1029年 – 紀元前949年 : 「正法眼蔵」による説
- 紀元前624年 – 紀元前544年 : 東南アジア諸国で用いられる仏滅紀元(歴史学的根拠に乏しいとされる)
- 紀元前565年 – 紀元前486年 : 北伝仏教の『歴代三宝紀』収録の「衆聖点記」による説。中国に渡来した僧によって伝えられた入滅紀元に基づく。その僧は、仏典注釈者ブッダゴーサが注釈を付けた『善見律毘婆抄』(「仏滅から218年後にアショーカ王が即位した」と記録する)を漢訳した人物であることからスリランカ上座部の説を根拠にしていると見られる。※この説では釈迦の享年は数え年で80歳、満年齢で79歳となる。
- 紀元前466年 – 紀元前386年 : 宇井説
- 紀元前463年 – 紀元前383年 : 中村説
等がある。
考古学による調査結果からの推定もあり、2013年にルンビニで紀元前6世紀の仏教寺院の遺構が見付かったと報道された。この遺構の年代が正確であれば、釈迦は遅くとも紀元前6世紀またはそれ以前に存命していたことが確実となり、釈迦の生年を紀元前5世紀とする宇井説や中村説は否定されることになる。ただし、問題の遺構は必ずしも仏教寺院のものとは限らないとする反論もある。
釈迦は何語で話していたのか
釈迦(ゴータマ・シッダールタ)は、紀元前7世紀~紀元前5世紀頃のインド北部(現在のビハール州マガダ地方)で生まれたため、主にマガダ語(Magadhi Prakrit)というプラークリット語の方言を話していたと考えられている。
これは、当時の東部インドの一般的な口語で、サンスクリット(古典語)とは異なり、庶民的な言語であった。
釈迦の教えは多様な聴衆に届けるため、地方の方言を使い分けていた可能性もあるが、経典の記述からマガダ語が本人の母語とされている。
背景と証拠
- 言語環境: 釈迦の時代はヴェーダ語(サンスクリットの祖語)とプラークリット語(口語)が並存。釈迦は王族だが、庶民に近いマガダ語を使い、教えを平易に伝えたとされる。パーリ語(経典の保存言語)は後世の標準化版で、釈迦の口語に近いが、釈迦自身が話したわけではない。
- 経典の記述: 『マハーパリニッバーナ・スッタ』(長部経典)で、釈迦は死の床で「私の言葉はマガダ語で伝えた」と示唆。後世の注釈書(アッタカター)でもマガダ語が釈迦の言語とされる。
- 学説: 学者(例: エドウィン・アーノルドの研究)では、マガダ語が釈迦の自然な話し言葉で、パーリ語はスリランカでの経典編纂(紀元前1世紀)で標準化されたものとされる。
釈迦の教えは口承で伝えられ、言語の違いを超えて普遍的に広がった。
評価
上座部仏教では、釈迦は過去仏を除いて、この世界における唯一のブッダ(真理体得者)と位置付けられている。ブッダである釈迦の説法によって解脱した仏弟子たちは阿羅漢と呼ばれブッダに次ぐ存在(聖者)とされた。一方大乗仏教では三身説をとり、姿・形をもたない宇宙の真理たる法身仏、有始・無終の存在で衆生を救う仏である報身仏(人間に対する方便として人の姿をして現れることもある)に対して、応身仏である釈迦は衆生を救うため人間としてこの世に現れた仏であると説明される。
他宗教
釈迦の死後、インドで仏教とヴェーダの宗教は互いに影響を与え、ヴィシュヌ派のプラーナ文献においては、釈迦はヴィシュヌ神のアヴァターラ(化身)だったと説明される。しかしヴェーダを否定した釈迦は、神の化身とされた割には必ずしも肯定的な評価ではない(ヴィシュヌ神が反ヒンドゥー教勢力を抑え込むため、ブッダに化して故意に偽りの教えを広めたとする解釈など)。現代のインド憲法でも仏教はシク教・ジャイナ教と並んでヒンドゥー教の分派のひとつとして扱われている。この件に関して、20世紀に新仏教運動(インド仏教再興運動)を率いたアンベードカルはヴィシュヌ派による釈迦の解釈を「偽りのプロパガンダ」と呼んで非難している。
マニ教の開祖であるマニは、釈迦を自身に先行する聖者の一人として認めたが、釈迦が自ら著作をなさなかったために後世に正しくその教えが伝わらなかった、としている。
マルコ・ポーロ
マルコ・ポーロの体験を記録した『東方見聞録』においては、釈迦の事を「彼の生き方の清らかさから、もしキリスト教徒であればイエスにかしずく聖人になっていただろう」あるいは、「もし彼がキリスト教徒であったなら、きっと彼はわが主イエス・キリストと並ぶ偉大な聖者となったにちがいないであろう」としている。また『東方見聞録』の記述では仏教という言葉は無く、アブラハムの宗教以外の宗教は全て「偶像崇拝教」と記述されているが、その偶像崇拝の起源は、釈迦の死後にその生前の姿を作ったのものとしている。釈迦はマルコ・ポーロの時代より1世紀前に、ローマ教会よりヨサファトの名で聖人として加えられていた(仏教とキリスト教)が、マルコ・ポーロはそんな事はまったく知らなかった。
釈迦の像
多種多様な仏像を祀る大乗仏教は偶像崇拝という印象もあるが、紀元前の仏教では反偶像主義の立場がとられ、ムハンマドの表象のように開祖の釈迦を像や絵画として描写することが忌避されていた。紀元前に造像されたバールフット美術やサーンチーの仏教レリーフでは釈迦を描写することが徹底的に忌避され、場面的に釈迦が登場せざるを得ないシーンでも法輪や聖樹に置き換えて表現するなどの対応がとられている。例えば『パーリ仏典』や『ブッダチャリタ』などに記録される、舎衛城の神変で 肩口から火炎を上げて足元から水流を放ったという奇跡(双神変)を釈迦が披露した場面や、成道した釈迦が父の浄飯王に再びまみえ六神通で釈迦が空中に浮遊した場面(父子相見)などの表現でも、バールフット美術やサーンチーの仏教レリーフでは釈迦の身体は一切描写されていない。釈迦の図像化はガンダーラ仏の出現によって忌避されるものではなくなり、多種多様な仏像が造像されるようになり今日に至っている。
釈迦を題材にした作品
小説
- ヘルマン・ヘッセ 『シッダールタ』(1922年)
- 武者小路実篤『釈迦』(1934年)
- 光瀬龍『百億の昼と千億の夜』(1965年 – 1966年)
- 瀬戸内寂聴『釈迦』(2002年)
漫画
- 手塚治虫 『ブッダ』(1972年 – 1983年)
- 萩尾望都『百億の昼と千億の夜』(1977年 – 1978年)
- 中村光 『聖☆おにいさん』(2006年 – )
- 梅村真也 『終末のワルキューレ』(2017年 – )
アニメ
- 『Fate/EXTRA Last Encore』(2018年)
ゲーム
- 『Fate/EXTRA』(2010年)
- 『Fight of Gods』(2019年)
映画
- 『亜細亜の光』 (原題: “DIE LEUCHTE ASIENS” 1925年、ドイツ)
- 『釈迦』 (1961年、大映 釈迦役: 本郷功次郎)
- 『リトル・ブッダ』(1993年、アメリカ 釈迦役: キアヌ・リーブス)
- 『聖☆おにいさん』(2013年、東宝、アニメ映画 ブッダ(釈迦)役:星野源)
- 『聖☆おにいさん』(2024年、東宝、ブッダ(釈迦)役:染谷将太)
実写ドラマ
- 『聖☆おにいさん』(2019年 – 、Netflix ブッダ(釈迦)役:染谷将太)
- 『Buddha』 (原題: “Buddha — Rajaon Ka Raja” 2013年、インド)
写真
- 「ほとけの乙女 ミャンマーの仏塔・寺院と少女たち」むそうたかし著
音楽
- 貴志康一「交響曲『仏陀』」
- 伊福部昭「交響頌偈『釋迦』」(合唱を伴う管弦楽曲)
- ペア・ノアゴー「歌劇『シッドハルタ(シッダルタ)』」
- 長渕剛「お釈迦さま」(SAMURAI (アルバム)に収録)
演劇
- ニコス・カザンザキス 『仏陀』
脚注
注釈
出典
参考文献
- 中村元『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』岩波書店、1980年。ISBN 978-4003332511。
- 中村元『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店、1984年。ISBN 978-4003330111。
- 中村元『ゴータマ・ブッダ 原始仏教1 1』春秋社〈中村元選集 決定版 第11巻〉、1992年2月。ISBN 4-393-31211-2。
- 平川彰『インド仏教史』 上巻、春秋社、1974年。
- マルコ・ポーロ『驚異の書 マルコ・ポーロ 東方見聞録』辻佐保子・樺山紘一・月村辰雄日本版監修、月村辰雄ほか訳、岩波書店、1998年2月16日。ISBN 4-00-008191-8。http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/8/0081910.html。
- マルコ・ポーロ『完訳 東方見聞録』 第2巻、愛宕松男訳注、平凡社〈平凡社ライブラリー〉、2000年2月。ISBN 4-582-76327-8。
- 中村元他『岩波仏教辞典』(第2版)岩波書店、1989年。ISBN 4-00-080072-8。
- 中村元、三枝充悳『バウッダ』講談社学術文庫、2009年。ISBN 978-4-06-291973-9。
- 中村元『ブッダ伝 生涯と思想』角川書店〈角川ソフィア文庫〉、2015年。ISBN 978-4-04-408914-6。
- 総合仏教大辞典編集委員会(編)『総合仏教大辞典』法蔵館、1988年1月。ISBN 4831870609。
- 廣澤隆之 監修『一冊でわかるイラストでわかる図解仏教』成美堂出版、2014年。ISBN 9784415111865。
- 櫻部建『倶舎論』大蔵出版、1981年。ISBN 978-4-8043-5441-5。
- 高森顕徹 監修『歎異抄ってなんだろう』1万年堂出版、2021年。ISBN 978-4866260716。
- 梶山雄一『大乗仏教の誕生 「さとり」と「廻向」』講談社、2021年。ISBN 978-4065237823。
- 梶山雄一ほか『完訳ブッダチャリタ』講談社、2019年。ISBN 978- 4065153420。
- 石上善應『佛典講座5 仏所行讃』大蔵出版、1993年。ISBN 978-4804354330。
- 平川彰『仏陀の生涯『仏所行讃』を読む』春秋社、1998年。ISBN 978-4393132937。
- 桂紹隆ほか『仏と浄土 大乗仏典Ⅱ (シリーズ大乗仏教5)』法蔵館、2013年。ISBN 978-4393101650。
- 佐々木閑「釈迦の死生観」『現代思想 2019年11月号 特集=反出生主義を考える ―「生まれてこない方が良かった」という思想―』、青土社、2019年、154-162頁。
- 森雅秀『インド密教の仏たち』中央公論新社、2001年。ISBN 978-4393119020。
関連文献
- 中村元『原始仏教 その思想と生活』日本放送出版協会〈NHKブックス〉、1970年。ISBN 4-14-001111-4。
- 中村元『ゴータマ・ブッダⅡ 原始仏教』春秋社〈決定版 中村元選集 第12巻〉、1992年5月。ISBN 4-393-31212-0。
- 中村元『ゴータマ・ブッダ 普及版』春秋社(上中下)、2012年8月
- 中村元『釈尊の生涯』平凡社ライブラリー、2003年9月。ISBN 4-582-76478-9。http://www.heibonsha.co.jp/catalogue/exec/frame.cgi?page=query.cgi&series=hl。 新版解説玄侑宗久
- 並川孝儀『スッタニパータ 仏教最古の世界』岩波書店〈書物誕生〉、2008年12月。ISBN 4-00-028285-9。http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/9/0282850.html。
- 並川孝儀『ゴータマ・ブッダ 縁起という「苦の生滅システム」の源泉』佼成出版社、2010年10月。ISBN 4-333-02467-6。
- 羽矢辰夫『ゴータマ・ブッダ』春秋社、1999年5月。ISBN 4-393-13297-1。
- 羽矢辰夫『ゴータマ・ブッダの仏教』春秋社、2003年12月。ISBN 4-393-13514-8。
- 早島鏡正『ゴータマ・ブッダ』講談社学術文庫、1990年4月。ISBN 4-061-58922-9。 元版『ゴータマ・ブッダ 人類の知的遺産3』講談社
- 増谷文雄『この人を見よ ブッダ・ゴータマの生涯/ブッダ・ゴータマの弟子たち』佼成出版社〈増谷文雄名著選〉、2006年2月。ISBN 4-333-02193-6。http://www.koseishop.com/ec/html/products/detail.php?product_id=5007。
- 水野弘元『釈尊の生涯』(新装版)春秋社、1985年6月。ISBN 4-393-13701-9。
- 水野弘元『原始仏教入門 釈尊の生涯と思想から』佼成出版社、2009年8月。ISBN 978-4-333-02395-0。 元版『釈尊の生涯と思想』平成元年(1989)刊
- 宮元啓一『仏教誕生』講談社学術文庫、2012年3月。ISBN 4-06-292102-2。 元版・ちくま新書、1995年12月
- 宮元啓一『ブッダが考えたこと これが最初の仏教だ』春秋社、2004年11月。ISBN 4-393-13520-2。
- 宮元啓一『ブッダが考えたこと 仏教のはじまりを読む』角川ソフィア文庫、2015年10月。ISBN 4-04-408917-5。 新版
- 宮元啓一『仏教かく始まりき パーリ仏典『大品』を読む』春秋社、2005年11月。ISBN 4-393-13537-7。
- 渡辺照宏『新釈尊伝』筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2005年8月。ISBN 4-480-08928-4。 元版・大法輪閣
- 中村元、三枝充悳『バウッダ(佛教)』講談社学術文庫、2009年。ISBN 978-4062919739。
- Oldenburg, Hermann (1882). Buddha: His Life, His Doctrine and His Order. Williams and Norgate
- 『釈尊のご生涯とみ教え』発行所・全日本仏教青年会、発行人・冨士玄峰 、2012年5月。ISBN 978-4-9906267-0-9 http://www.kobe-myousenji.jp/seiten.htm
- 中村元『ブッダのことば スッタニパータ』岩波書店、1984年。ISBN 978-4003330111。
- 宮本久義「ヒンドゥー教の根本思想」『ヒンドゥー教の事典』東京堂出版、2005年。
関連項目
- 弥勒菩薩 – 釈迦牟尼仏の次に現われる未来仏
- 地蔵菩薩 – 弥勒菩薩が現れるまで六道すべての世界に現れる菩薩
- シッダ – インドの宗教・文化で使用される修行によって悟り、神通力、究極的な肉体と精神を得た者。サンスクリットで意味は「完成した者」、もしくは「達成した者」
- 灌仏会(花まつり)
- 成道会
- 涅槃会
- ウェーサーカ祭
- 仏教美術
- 釈迦三尊
- 釈迦堂
- 釈迦十大弟子
- その他の弟子 – 莎伽陀、薄拘羅、劫賓那
- バンレイシ – 実の形が螺髪に似ていることから「釈迦頭(しゃかとう)」とも呼ばれる。
- ヴィパッサナー瞑想
- 覚王山日泰寺 – 釈迦の遺骨が安置されている。
- お釈迦になる – 作りかけのものが台無しになることを表す慣用句。
外部リンク
- 釈迦 – 日本大百科全書(ニッポニカ)(コトバンク)
- 世界大百科事典 第2版『釈迦』 – コトバンク
- 中央学術研究所 原始仏教聖典資料による釈尊伝の研究
- Buddha (英語) – スタンフォード哲学百科事典「釈迦」の項目。
- 佐々木閑「ブッダの一生」(動画)
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釈迦は 苦 の 輪廻 からの 解脱 を目指した。 仏教の教義は多様化しているが歴史学的・宗教学的には「死後に 天界 を含めて、一切皆苦のこの世界で二度と生まれ変わらないこと」を釈迦は目指していたと説明される [9][10]。. HOME > 教えを学ぶ > お釈迦さま(ブッダ) > PR お釈迦さま(ブッダ) 釈迦(ブッダ)の生涯をやさしく解説|王子が悟りに至るまでの人生と選択 2026年6月8日 この記事でわかること